第2回 鄭 企娟氏 株式会社スキン・プラス・アース
2010年9月に、国際奉仕団体ロータリクラブで、私は一人綺麗な韓国出身の女性鄭企娟様と出会いました。
しかし、彼女のお話から私は大変な衝撃を受けました。何と26歳の時、余命4年と宣告されたのです。
それを聞いて、私及び席の周りの会員もみんな涙をぐんでいました。本当に不公平ですね。
綺麗な彼女がこんな病気にかかるなんて。
そんな難病を抱えながらも、彼女は弱い体を引きずって、頑張ってロータリークラブの例会に参加していました。
なぜと訪ねると、生きているうちに、もっとたくさんの人と出会いたいからと笑顔で答えてくれました。
彼女はいま家族全員や子供向けの化学物質無添加の天然せっけんや天然シャンプーを扱っています。治療を受けながらもこの事業は続けるそうです。
私は彼女のために何かしてあげたい、しかし私には何ができるのでしょう。
ただただ鄭企娟様さんには一日も早く回復して、また好きな化粧品の仕事が出来るようになってもらいたいです。そのように祈っています。
2010年の暮れに、ようやく二人再会して、ゆっくりお話を伺うことができましたので、ここで彼女の奮闘ぶりを皆様にご紹介します。
なお、彼女が命を削ってまで一生懸命に本に紹介しようとしている石鹸は私は半信半疑で使ってみましたが、虜になりました。自信をもってお勧めできます。
フォーマル子供服線専門店KAJIN
代表取締役 林 志英
株式会社skin+earth (スキン・プラス・アース)
URL : http://www.skinplusearth.com/
林 | 私は中国の大学で日本語を専攻していたので、卒業後日本に留学するのが自然の流れでしたが、鄭さんはどういうきっかけで日本に来られたのですか? |
鄭さん 以下敬称略 |
生まれた時、女の子だったのに余りにもブスで男の子に間違われて隣の一緒に生まれた男の子とブル-色の服を着せられたそうです(笑)。
小学校と中学校時代は放送部で校内の朝礼やランチの放送などでアナウンサーをしており、将来の夢はアナウンサーになることでした。詩の朗読大会や放送演劇、ミュージカルなどに夢中で、ミュージカル俳優になることも夢見ていました。 しかし、家は父が先生で、叔父も伯父も大学の先生である厳格な教育の家庭で育てられ、そういう夢は夢にしか持つことができませんでした。私も勉強をして教授になるために、そして親から離れたことが一度も無かったので一人前になるために日本に留学を決めました。 |
林 | 私は日本に来て、最初は九州の大分大学で経営学を学んでいましたが、鄭さんは何を専攻されていましたか。また簡単でいいですが、履歴をご紹介いただけますか? |
鄭 | 鄭 企娟(ジョンキヨン)1978年2月1日 韓国生まれ。
大学講師、株式会社スキン・プラス・アース代表 埼玉大学大学院文化科学研究科日本・アジア文化研究専攻博士。22歳に日本へ留学、大学で日本語学を専攻、外国人のための日本語教育と日本人のための韓国語教育の資格を取得、現在日本女子大学の講師で勤務。留学中から日韓企業の商談会・展示会などで通訳・翻訳。それを生かし、2010年4月韓国のエコ商品(肌に優しい地球に優しい日常生活用品)を輸入販売する株式会社skin+earthを設立。 |
林 | 私は大学院の時、米山奨学金を2年間獲得しました。それが私の人生に大きな影響を与えたわけですが、いまはロータリークラブへの恩返しと世の中に役に立ちたいという思いでロータリアンになりました。鄭さんはロータリークラブとのご縁がどのように出来たのでしょうか?![]() |
鄭 | 日本に留学して、ロータリー米山奨学金を頂いたきっかけでロータリークラブと出会いました。一番大きいきっかけは卒業を間近にして病気になった時、精神的に心の支えになって下さったのです。
日本にいた私はすぐ家族に相談できず、その時奨学金を頂いていたロータリークラブという団体の方々に相談、病院の手当を初め、励ましの言葉を頂いたりして、その時期を乗り越えられました。 私は病気になって、人に助けられ、人の大切さ、そして生きることの大切さを感じました。この時出会った方々のお陰で、現在の私がいて、現在の会社を立ち上げることが出来たと思います。。 |
林 | いまこうしゃべってても分かりますので、鄭さんはすごく日本語が上手ですね。日本語によるスピーチ大会で準優勝を獲得されたとうわさで聞きましたが、具体的に教えていただけますか。ちなみに私も留学生の頃九州の福岡で日本語弁論大会に参加したことがありますが、見事に惨敗(笑)。 |
鄭 | ある夜、いきなりロータリーの方から電話が来ました。
日本語女子弁論大会埼玉大会があるけど出てみないかという電話でした。いつですかと聞いたら、3日後だと聞いて、驚いたのですが、良い経験になると思いまして、出る決心をしました。 思いもしなかった最優勝を頂き、日本全国大会に出場しなければいけないと言われまして、出場した結果準優勝と頂いたのです。本当に偶然の出来事で、皆さんに恥を掻かせないために3日間必死に練習した結果がこんな栄光の賞を頂く結果になったので自分も驚いております。 |
林 | 私はいま子供達のピアノの発表会とか、結婚式とか、七五三とかに着ていくドレスのようなおしゃれなお洋服をネット通販していますが、鄭さんはいまどんなお仕事をされていますでしょうか ? |
鄭 | 週2回は大学で韓国語講師を務め、その以外の日はは会社の仕事をしております。韓国から地球にやさしいお肌にやさしい、100%化学物質無添加のせっけんとシャンプーなど、日常生活用品を輸入・販売しております。赤ちゃんからお肌が敏感な方まで、男女老少関係なく家族が一緒にお使いいただけるとても嬉しい物です。 |
林 | 韓国の化粧品は日本でも大人気ですが、その中でも鄭さんはいまの化粧品販売会社をどういう思い出で作られたのでしょうか ? |
鄭 | 私は2001年4月に日本に留学して今年で丁度10年になります。しかし、健康だった私に突然大きな出来事が襲いかかります。修士課程の卒業を目の前にして、骨髄異形性症候群という病名で4年という余命宣告を告げられるのです。
韓国に戻り、日本語の先生になることを夢見ていたのに、仕事は言うまでもなく、日常生活も出来なくなるという辛い現実にぶつかり、4年という人生をどうやって生きるかを初めて考えました。その時思ったのが、自分だけのために生きる人生は無意味だということ、生きている内に人のために何かできることを探さなければと思い始めたのです。 今死ぬのが怖いのでは無く、この人生で人のために何も出来ていない自分に情けなくてこの会社を立ち上げました。弊社が人のために良い商品を作り、世界の人のためになること、そして会社の資金を貧しい人のために寄付し、お互いに助け合う明るい世界に繋げたいと思います。 |
林 | 私が日本に来た時はちょうど桜満開で、絵に描いたような綺麗な国だなと実感しましたが、鄭さんは日本に来た時の日本への印象はどうでしたか? |
鄭 | 一番最初日本に着いた時は町中がとても静かで綺麗で、驚きました。風景は韓国と変わらなかったのに、韓国と真逆で電車も食堂も静かで、私も思わず静かになりましたね。 他人に迷惑を掛けないように努力している姿が見えました。勿論日本のそういう文化は良いと思いますが、もうちょっと気楽に過ごせることも人には必要かも知れません。韓国と日本が折衷して真ん中にくらいになれば丁度良いなと思います。 10年が経った今は、日本人は内の関係で協力心と団結力が凄いなと思います。私も色んな会合には参加しようと心掛けておりますが、なかなか日本人の団結力にはまだまだ付いていておりません。しかし、内だけでなく外の関係でもお互いを思う気持ちが大事だと思いますね。たとえば、電車の中で若者は年寄りに席を譲ったり、重い荷物を持っていたら自分から声をかけて助け合ったりして、外でもお互いに助け合う人が増えると日本はそして世界はもっと明るくなるのではないかと思います 。 |
林 | 私は鄭さんの病気が絶対治ると信じて、こころから応援していますが、鄭さんももしそのうち元気になられたら、どんなことをしたいですか? |
鄭 | 個人的な目標は骨髄移植が成功し病気が治ったら、再び日本に戻り、大学の仕事も会社の仕事も続けてしたいです。26歳に死を目の前にし、生きることの大切さと人の大切さを感じたので、生まれ変わって、もっと元気になって、もっと自分を磨き、人のために生きたいです。
会社としての目標は、現在は韓国から地球に優しいお肌に優しい物を取り入れているのですが、将来は日本に活躍している世界各国の人材を雇って、世界中の環境に良い人に良い物を日本に取り入れたいと思っています。最近地球温暖化で、2100年には平均気温が最良推定値で1.8?4度(最大推計6.4度)、海面水位は平均推計で38.5cm(最大推計59cm)上昇するとされています。2050年までは皆が努力しなければ世界は水に沈んで無くなるかもしれないので、世界の人に役立つ会社になることを夢見て前に進みたいです。 |
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